
「日本の学校教育は終わっている」
「個性や創造性を殺す工場だ」
ビジネス書やSNSでは、こうした教育批判が溢れています。
私自身も、資産形成や自由な生き方を推奨する立場として、画一的な教育システムには否定的な側面を感じています。
しかし、投資家としての冷静な視点で日本社会を見たとき、ある一つの「不都合な真実」に気づかざるを得ません。
それは、この「クソな教育システム」こそが、世界トップクラスの「治安」というインフラを支えているという事実です。
日本の教育は、創造性を犠牲にする代わりに、「犯罪を起こさない従順な国民」を大量生産するシステムとしては、異常なほど優秀なのです。
今回は、日本の教育が抱える「歪んだトレードオフ」と、そのシステムの中で私たちがどう立ち回るべきかを解説します。
「個性」を殺し、「規格品」を作る意味
日本の学校教育の特徴を挙げると、ネガティブな言葉が並びます。
• 画一的: みんな同じことをさせる。
• 同調圧力: 「空気」を読ませる。
• 減点主義: ミスを許さない。
これは、起業家や投資家(B・Iクワドラント)を育てるには最悪の環境です。
しかし、「組織の歯車(Eクワドラント)」を育てる環境としては、世界最高峰です。
みんなが同じ時間に登校し、チャイムで動き、理不尽な校則にも黙って従う。
このトレーニングを10年以上受けた人間は、社会に出ても「時間通りに来て、文句を言わずに働く」ようになります。
日本の経済成長やインフラの正確さは、この「高品質な規格品」たちによって支えられてきました。
「掃除」と「校則」は、最強の防犯プログラム
海外の学校と日本の学校の決定的な違い。
それは「生徒に掃除をさせるか否か」です。
欧米では掃除は業者の仕事ですが、日本では「教育」です。
他にも、
「廊下を走らない」
「制服を着る」
「集団行動をする」
これらは一見、学力とは無関係に見えます。
しかし、これらは強烈な「衝動コントロールの訓練(社会的しつけ)」として機能しています。
• 自分の出したゴミでなくても拾う。
• 嫌な作業(掃除)もみんなでやる。
• 個人の感情より、集団の規律を優先する。
この刷り込みは、大人になった時に「犯罪予防機能」として発動します。
日本人が暴動を起こさず、列に並び、落ちている財布を交番に届けるのは、彼らが「聖人君子だから」ではありません。
幼少期から「ルールを破ることへの強烈な忌避感」を、体に刻み込まれているからです。
「監視社会」の正体はカメラではなく“隣人の目”
日本の教育が叩き込むもう一つの概念が、「人様に迷惑をかけない」です。
これは裏を返せば、「常に見られていることを意識しろ」という相互監視の強制です。
「みんなが見てるよ」
「自分だけ違うことをすると浮くよ」
この感覚が内面化されると、警察がいなくても犯罪抑止力が働きます。
「村八分への恐怖」が、法的な罰則以上に強力なブレーキになるのです。
• 自由度: 極めて低い。
• ストレス: 常に高い。
• 治安: 世界トップクラス。
我々は、子供たちの「自由な魂」や「メンタルヘルス」を代償(コスト)として支払い、その対価として「夜道を一人で歩ける安全性」を買っているのです。
これは、ある意味で「国家規模の安全保障契約」です。
教育の「毒」を抜き、治安の「果実」だけを得よ
私はこの教育システムを全肯定するつもりはありません。
しかし、全否定もしません。
なぜなら、私たちが安心して資産形成やビジネスができるのは、このシステムが社会の底抜けを防いでくれているからです。
重要なのは、この構造を理解した上でどう生きるかです。
1. システムを理解する:
「ああ、学校は“従順な労働者”を作る場所なんだな」と客観視する。
真に受けすぎてメンタルを病む必要はない。
2. 「毒」を抜く:
大人になったら、学校で植え付けられた「同調圧力」や「正解主義」を意識的にアンインストール(学習棄却)する。
投資やビジネスで成功するには、そのプログラムが邪魔になるからだ。
3. 治安を享受する:
日本という「安全なフィールド」を最大限利用し、リスクを取って挑戦する。
まとめ:学校は「刑務所」ではないが、「訓練所」ではある
日本の治安の良さは、「日本人が生まれつき優しいから」ではありません。
「小さい頃から社会規範(コード)を脳と体に刻み込まれているから」です。
その刻み込み装置の中心が、学校教育であることは間違いありません。
もしあなたが「自由な人生」を望むなら、学校で教わった「みんなと同じにしなさい」という呪いは解かなければなりません。
しかし同時に、その呪いがかかった人々によって維持されている「安全な社会」に、感謝すべき側面もあるのです。
学校教育はクソかもしれません。
ですが、そのクソなシステムのおかげで、今日もあなたの家には泥棒が入らず、電車は時間通りに来るのです。
この皮肉な現実を直視することこそが、大人の社会科見学といえるでしょう。

